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Story 02 藤井製桶所【前編】

2023年夏。NHK時代に計6年にわたって在住した大阪に降り立つ。
NHK大阪放送局に2度目の配属となった2013年は、ちょうどJR大阪駅前に「グランフロント大阪」が開業した年だった。駅の構内の喧騒に、そんなことをふと思い出す。あれから10年が経つが、大阪駅周辺の賑やかさはコロナ禍を越えて、また戻ったようだ。

写真)大阪駅の喧騒とは一変して、藤井製桶所最寄りの鳳駅周辺はのどかで風情ある街並みが続く。

今回の目的地は、堺市にある藤井製桶所。全国に知られる木桶製造業者だ。
賀茂鶴と藤井製桶所とのご縁は、平成20年に大甑(こしき)の製造をお願いしたときに始まった。甑とは、米を入れて蒸す工程で使う木製の桶のこと。賀茂鶴で使っている甑の米の容量は3トン。日本最大級の大きさだが、これだけの甑の製作や修繕をできるのは、日本で藤井製桶所くらいだという。

しかし数年前に藤井製桶所から、大甑の製造を終えたいとの意向が伝えられたため、2018年に技術の一部を習得する目的で酒蔵大工や醸造蔵社員が大阪・堺を訪ねた。そして2021年にお隣の西條鶴醸造から大桶の修繕の修理の依頼を受け、3代目の上芝雄史さんと藤井泰三さんご兄弟に賀茂鶴までお越しいただき、直接指導を仰いだ。

大桶づくりとは、まさに熟練した桶師の技の結晶だ。樹齢100年以上の吉野杉から切り出した長さ2メートル級の側板を組み合わせ、竹で編んだ箍(たが)をはめる。桶の形はご存知の通り、寸胴ではない。底板に向けて胴回りが細くなるよう切り出した側板同士を、接着剤はいっさい使わず密接させ竹釘で留める。それなのに、水がまったく漏れることはない。

そんな匠の技をなんとか伝えようと、全体をわかりやすく見てくださる上芝さんと、箍(たが)の編み込み方のコツなどを社員に細かく指導してくださる藤井さんの姿が印象的だった。

藤井製桶所は鳳駅からタクシーで10分ほどの場所にある。広い敷地に足を踏み入れるとまず天井の高い作業場が目に入るが、その手前に大きな樽をひっくり返したような外観の建物がある。それが藤井製桶所の事務所だ。
タクシーを降りると、上芝さんが屈託ない笑顔で出迎えてくれた。

藤井製桶所は上芝さんの祖父が1920年に創業した会社だ。桶というと日用品や醸造用の木桶をイメージしがちだが、初代と2代目までは、主に化学薬品を扱う工場向けの何百トンという容量の大桶を製造していたという。

「兵庫で桶師をしていた祖父の清春(きよはる)は、1920年に堺に移り住み起業しました。でも当時の醸造業界っていうのは出入りの業者さんが大体決まっていたんです。だから仕方なく木蓋を作ったりしていたそうですが、桶師なのでやっぱりでかい桶を作りたい。じゃあどうするか、ということで、当時、南大阪は染色織物が盛んで染料・顔料会社も多かったもんですから、そこに大桶を納めるようになったそうです」

木は鉄に比べて酸に強く、断熱性が高い。そのため、化学薬品を扱う工場で木製の大桶は大変重宝されたらしい。それは2代目の時代になっても続いたという。

「戦後になっても親父の時代は非常に忙しかった。朝鮮戦争特需もありましたし、南大阪は織物やらカーペットやら繊維関係が非常に忙しかった。ガチャマンといって、1回機械がガチャって言ったら1万円儲かるっていう時代もあったんです」

一方で、醸造関係だけに出入りしていたような老舗の桶屋は、戦後10年、20年ぐらいの間でほとんど廃業してしまったという。

「戦後復興の過程で材料の材木が高騰して、桶屋は材料の材木をなかなか調達できなかった。それと並行して戦争中に鉄砲や軍艦を造っていたところが、代わりにホーロータンクを造るようになった。ホーロータンクは安価だし、洗えますでしょ。しかも昭和40年代以降、行政から木桶は不衛生だから使うなという指導が入るようになって、酒、醤油、味噌といった醸造業界はみんな木桶をやめて、ホーロータンクを使うようになったんです」

もし初代が醸造業界にこだわっていたら、藤井製桶所もこの時代まで残らなかったかもしれない。人生も商売も選択の連続だ。

「その時代はメーカーさんの工場に200トンとか150トン、100トンというタイプの大桶を何基も納めさせてもらっていました。今振り返って、改めて当時はあれだけ仕事が来てたんやなって思いますよ」

上芝さんが背面の書類棚から古いアルバムを引っ張り出して、当時つくっていた大桶の写真を見せてくれた。「これオヤジの字なんですけど」と言って指差した先に書いてあったのは「1万3000リッター」の文字。

「この辺のクラスの桶になると高さ10メートルとか、側板一枚が100キロあったりするんですよ。人間の労力だけではとても無理なので、重機とかフォークリフトとか、機械で加工するということに割と長けてたんです」

なるほど。初代と2代目の時代に何百トンというクラスの大桶を製造する技術が培われていたということか。賀茂鶴の大甑は醸造業界では日本最大級の大きさといわれているが、それでも工場向けの桶に比べれば、うんと小さい桶だったということになる。

「そうです。うちとしてはずっとつくってきた桶よりもうんと小さい桶を、酒屋さんとこに納めてるって話です」とイタズラっぽく笑った。

しかし上芝さんが3代目として藤井製桶所を継ぐ少し前あたりから状況は一変する。時代とともに、主要取引先だった工場が閉鎖したり、業態が変わったりしていよいよ桶の注文が入らなくなった。

「桶屋の看板あげとっても桶屋の仕事がないんです。年に800件とか1000件とか営業に回りました。可能性のありそうなところ、例えば店舗装飾であるとか、漬物屋さんであるとかね」

そうやって数年、踏ん張ったものの厳しい状況が変わることはなかった。上芝さんは工場の土地を売って、職人さんたちの退職金をつくった。

写真)
仕事がなく暇だった時期に「大きな樽を横にしたら建物になるんじゃないか」と思いつくったという事務所

ほどなくして上芝さんは桶屋の看板を下ろした。しかし何もしない訳にはいかない。そこで、桶屋の設備を使ってできることをと考え、木工業を主とするウッドワーク株式会社を立ち上げた。

写真)
事務所内の壁にはウッドワーク株式会社が手がけた木工製品の写真が飾られている。

「そしたら閉業前に営業しとったところから、木彫の看板や、公園や役所に置くベンチや展望台なんかの注文がぽつりぽつりとはいるようになったんです。解雇したはずの職人もなんだかんだ言っては工房に通って来るようになった。でもそこからです。石の上にも3年っていうのがあるけど、私の場合、石の上で30年(笑)」。

厳しい時代は続いたが、木工の仕事でなんとか食い繋いだ。
当時の心境について尋ねると、穏やかな表情でこう答えた。

「ただ、凌いだのです」

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